なんかだいたい言いたいだけな気分が増してくると、色々思うこととかも書いてみたくなったりしてきます。
で、この辺について思うこととかいろいろ。
[nori5:25]寄稿とブログ(文才)について | nori510.com
ブログに文章がどうのこうのは同意
なんか@kuracyanが褒めてくれてたので嬉しくなって読んだ。
そして色々思った。文才がないからどうのこうの、ってのは全く目にしてないので、あくまでも勝手な想像なんだけど。
ブログは文章がどうのこうの、って言葉には全面的に同意。
その上でちょっと思うこと。
「文才」について
自分は「才」って言葉があんま好きではない。
「文才」って文字にすると、文章の才能、ってわけでしょ。
ちょっと大辞林で調べてみた。
どうしても「才」って文字には「1」の意味を感じてならない。
「文才がない」とか言ったら「生まれつき持った文章の能力が足りない」みたいなニュアンスで受け止められてしょうがない。
で、そういう風に考えてしまったらなにもはじまらないわけで。
そんな事をいいながらも、たぶん、生まれつき持った「能力」に「差」はあるとは思う。
だけど、そうやって「能力がないから」って言ってしまったら、いろいろやってる人に対してすごく失礼なわけで。
生まれつき能力が「ある」としても、それは何らかの形で磨かれたことで結果を伴っているわけで。
努力て言葉もあんま好きじゃないんだけど、その一般的な意味での「努力」なくして「才」なんてものは光るはずがなくて。
だから、才がないとか思う暇があるんだったら、「才」があるかないか、少なくとも試してみなきゃわかんないし、ぶっちゃけ「才」なんてなくても、今時それを補う手段なんていくらでもあるわけで。
「才」て文字がゲシュタルト崩壊してきた。
すごく主観的な意見を言えば、恥をかける人ってのはすごくかっこいいと思ってて、恥をかくのは年を重ねれば重ねるほど恥ずかしいから、ついつい躊躇してしまうんだけど、少しでも早いうちに恥をかいておかないと、もっともっと恥ずかしい思いをする可能性が高くなるから、思い立ったら恥をかくべきだと思う。
で、だからこそ悩む暇があったら「恥ずかしいこと」をいっぱいする機会を作っておいた方がいいんじゃないかな、とか思います。