予定日から1週間以上経過したんですが、11月12日の23時に第一子が誕生し、いわゆる「お父さん」というやつになりました。
ありがたいことに、わりと時間の融通が利く人生を送っているおかげで、出産にもきちんと立ち会うことができ、非常に貴重な経験ができました。
なんかいろいろと思うところはあって、これには大量の主観が混ざっていると思いつつも、率直な感想というやつは率直に他の人の参考になるかもしれないな、なんて思ったりしたので、そんなことをちょっとまとめてみたいと思います。
予習なしではなにもわからんかった
”嫁が陣痛キター、って感じになったのが、だいたい夕方16時くらいから。その後、20時ごろに破水して、実際に生まれたのが23時くらい。”
初産にしては時間的にこれは「早い」みたいなんですが、そもそも1年前の自分だったら、この単語の意味すら何一つ理解できていなかっただろうと断言できます。
破水って言葉を聞くと、なんか「良くない状態」なのかと思ってしまってたし、陣痛というのが果たして「痛い」以上のなんなのかもわからんし、そうなったとして自分がどうしたらいいのかも全然わからん。
まぁ当たり前の話なんだけど、男親って出産の際の肉体的な負担はゼロなわけで、たぶんきっと多くの人は「リアルな出来事」としては想像しづらいもの。
なんというか、男親的には、出産というのは一体全体何がどういうことが起こってどうなるのか、肉体的には何も起こらないがゆえに、結局一体全体どういうことなのか、よくわからないままで時間が流れていってしまうものなんだと思います。
実際の出来事
ちなみに、嫁の陣痛から出産までの流れはこんな感じでした。
- 嫁の陣痛が本格化し、ぼくはテニスボールを嫁の尻に押し付けるお仕事(テニスボールでお尻あたりを押さえつけると痛みが緩和されるらしい)
- 助産師さんがやってきて、ちょっと見てみるからパパは外で待っててね。
- すっげー痛そうな声とか聞こえてきて、しかもけっこう待たされて不安になってくる
- 破水したからLDR(陣痛室と分娩室が一緒になった部屋)に移動します!
- (俺の気分を)一度仕切り直して、テニスボールのお仕事の続き
- 再び助産師さんが来てくれて、付きっ切りでお世話してくれる(ここで俺のお仕事終了)
- 嫁は基本すっげー痛そう
- なんか変な姿勢だな、とか思ったら、子供の前後ろ違うから頑張って向きを変えましょう、って状態になってた
- あれ?そろそろ生まれるの?って思ったのは2度や3度では済まない
- 最後は大先生の登場で、一瞬で生まれてしまう(5分)
予習してたとしても(たぶん)ほとんどわからん
で、こんな感じで「横から」出産を体験して、身にしみてよーくわかったのが、結局「一緒にいてもわからん」ということと「不安になってもしょうがない」ということ。
出産の立会いを経験したことで、後になってからならば一連の出来事を整理して理解できたつもりですが、仮に事前にどんだけ勉強したとしても、基本父親というものは(医師などの特殊な職業を除けば)よくわからんし、よくわからんからこそ不安一杯になってしまうものなんだ、と思いました。
たぶん、ちょっとやそっとくらいお勉強しても、あらゆることが人それぞれで違うから、たぶんきっとどっちにしても「不安でわからん」ことばっかり。
また、私の場合「コウノドリ」っていう出産漫画がほぼ全ての予習教材になっておりまして、この漫画自体はめっちゃ面白いし参考になりまくるんだけど、どれもこれもわりと「大変な出産(かなり重いやつまであります)」の物語ばっかりで、読んでみると不安は膨らむばかりなのです。
そしてさらに、自分が直接それに関わると、そういうこわ〜いシーンばっかり想像してしまい、なおかつそれに対して自分は何もできないことがわかってしまい、とにかく不安は募るばかりなのです。
でも、今になってみて、わりとけっこう「悟り」ました。
結局、自分ができないことで不安になってもしょうがないから、できることでベストを尽くすしかない、と。
この普遍的な定理は「男親から見た出産」という出来事ほぼ全部に、きっと当てはまること。
嫁がどんなに痛そうでも、代わってあげることは無理なので、できる限りのサポートをするしかない。少しでも痛みを緩和するか、気を紛らわす為に努力するくらいしかできない。
そして、これはたぶん生まれてからもほぼ同じ。
これから心配になることはいっぱいあるだろうけれども、自分ができる以上のことはどう頑張ってもできないから、それはもう「今できること」をやるしかなくて、それ以上に過剰に心配しても意味ないわ。
そして、たぶんこういう風に、今まではあり得なかったようないろーんなことを身をもって学べるというのが、子供ができるということの素晴らしさなのではないかという、まるで教科書のような理想的な結論に、わりと本気で心の底から思い至るようになったのであります。
産後48時間での感想
ちなみに、これもまた極めて主観的な意見で、他の人がどう思うのかはなんともわかりませんが、産まれた瞬間とか、正直あんんまり特になんでもないことだったんです。
生まれた瞬間とか見るとすごい感動するよ、みたいなこと聞いたりしてたんですが、正直まぁあんまり特になんかすごい感動的な気分とかには至らなかったんです。
ただ、2日くらい経過して、すっげーわかりました。
すっげー愛着が出てきて、可愛いと思うようになりました。
そう思うようになれたのは「おれが」自分自身で子供の世話をした時から。
ゲロ拭いてあげたりとか、自分で抱っこしたり服を替えたりとか「おれ一人ががやってやったぜ」って実感できる、お母さんのお手伝いではないことをした後になってからは、これがまぁ不思議と驚くほどに、こいつ可愛いなーと思うようになったのです。
加えて言うならば、今現在ブログを書いている状態とか、撮った写真とか動画を見たりしてたりとか、後になってから生まれた時を思い出すと、これは確かにわりとなんかけっこうデレデレな感じになったりするのです。
「感動」かどうかはわからないけど、思い出しニヤニヤとかをするくらいには、なんかいい気分を味わえるのは確かなのです。
自分の子ならば抱っこは怖くなかった
あともう一個。
これも自分の中では意外すぎて、驚くほど自分でも驚いたんですが、自分の子供であれば抱っこするのは怖くなかったのです。
これは、自分にとっては実になんというか恐るべき恐ろしい発見でありました。
よく、友達の子供とか見せてもらうと「ちょっと抱っこしてみる?」とか言われて渡されたりするんだけど、もうね、そんなんとにかくもう全力で怖くてたまらんくて、抱っこさせるとかって親切なつもりな感じとか本気で怖くて嫌だから、本当にやめてくれとか思ってたんです。
これがね、自分の子供だったら、平気なのですよ。
むしろ抱っこしてるとたしかにこれは素晴らしいものだと思うのですよ。
たぶん「俺の子供ならば俺の責任」みたいに思えるからなんじゃないかと予想するのですが、たしかに、抱っこさせてもらえるのとかこれは素晴らしい。
今になってならこれは本当にそうだと断言できる。
新しいことがいっぱい体験できるのが素晴らしいんだと思う
で、今現在ここに至って、子供ができることってのは、これまでにはまったく経験できなかった新しいことがいっぱい経験できる、というのが最強に素晴らしいことなのかな、と思うようになりました。
まぁ、それもこれも、すっげー大変な思いをして子を産んでくれた嫁だったり、身の回りの人たちのサポートだったりがあってこそなわけで、そういう周りの人たちに改めて感謝できるのも、子供が生まれたメリットなのかな、とも思います。
あとね、何よりもすごいと思ったのが、ちゃんと「出産準備」をきっちりとしていた嫁の準備力の高さ。
わりとけっこう出産関連で必要なものとかは家族や友達に借りたりもらったりしてたんだけど、なんだかんだと必要なものは結構あるし、細かいけれども揃えようとすると結構大変なわけです。
生まれる前の段階から、ちゃんといついつまでに出生届を出さないといかんからな、とちゃんと俺に伝えておいてくれました。
そういうのって、事前に調べるのだけでも俺的には大変すぎて無理なのですが、そういうものだけでなく「生きるために必要なもの」がきちんと事前にAmazonの「欲しいものリスト」として産後生活に必要なものがリストアップされているのです。
「子供が生まれた時、本当に使えるものだけ集めたウィッシュリスト」の例を作ってみたのでどうぞ – 941::blog
↑ こんな記事を読んで、出産前の暇な時間にこういう必要そうなものをリスト化して集めていたそうなんですが、なんかもうぼくはとにかくいろいろと頭がさがる想いでいっぱいで、もうなんていうか感謝と尊敬であふれた気分になっているわけであります。